日限地蔵菩薩
日限地蔵菩薩について
行基作・延命地蔵菩薩

 安西寺に創建期より本尊として伝わる行基作・延命地蔵菩薩。元禄十四年(1701)、第十七世覚阿玄達和尚が江戸幕府への報告としてまとめた『駿河御末寺由緒書』に以下の記述が残っています。

本尊地蔵大菩薩 掌善童子 掌悪童子當本尊は等身之尊像也其濫觴を尋ねるに、人皇四十五代聖武天皇御悩在す時、種々醫術を盡し、神廬を遖アと雖も平快なら不。故に博士之を占て是に従うと、東國駿河國足窪之谷と云う處に楠有り。此度之御悩彼ノ木を伐て七観音之尊像を造立したまわば、御悩快験を得たもうと相人奏聞に達す。即ち勅使立て為被れ足窪之谷悉く之を尋れば深谷之中に楠有り。即ち彼ノ木を伐り行基僧正に仰て七観音を造営せしめ畢ぬ。府邊七観音七箇所立ち給う也。是に因り天皇之御悩怱に平快し給う。此時天皇の勅願に依て地蔵菩薩之尊像を彫刻可し勅定有り。唐木の御曽木を行基僧正に贈り而して謹勅に荅えしめ大般若六百巻を書寫し乍ら當寺之本尊地蔵菩薩を彫刻し奉る者也。

 奈良時代、病に臥された聖武天皇の平癒祈願のため、行基上人が駿河国足久保の楠で七観音を彫り、その後、天皇がお元気になられたことから、七観音のお礼に行基上人に地蔵菩薩を作らせた、とあります。
 行基上人が勅命を受けて彫刻したこの菩薩様は、当山の本尊として篤い信仰を集め、徳川家康公が駿府城を築いた折には駿府城二の丸に祀られた軍神・愛宕権現の本地仏(本来の姿)として珍重されました。

日限地蔵として愛される

 当山は江戸幕府より扶持米を頂く御朱印寺でした。いわゆる檀家は持たず、一般からのお布施はいただかない、いわば公益法人のような立場で布教活動を行なっており、本尊延命地蔵の使命とは駿府城をお守りすることでした。
 明治になり、福田寺と合併して丸山の地に移転してからは、庶民に開かれた民間寺院として再出発をはかりました。地蔵菩薩の役割もおのずと変わってまいります。新たに建立された安西寺は本尊を阿弥陀三尊とし、延命地蔵菩薩は境内の地蔵堂に祀られ、日限地蔵として信仰を集めるようになりました。
  “日限(ひぎり)”とは、日を限って祈願する参詣のスタイルのことです。仏教にはそれぞれの仏様と縁を結ぶ日「三十日秘仏」があり、縁日に祈願すると格別のご利益があるといわれています。

「三十日秘仏」一日、定光佛。二日、灯明佛。三日、多宝佛。四日、阿しゅく佛。五日、弥勒佛。六日、二万灯佛。七日、三万灯佛。八日薬師如来。九日、大通智勝如来。十日、日月灯明佛。十一日、歓喜佛。十二日、難勝佛。十三日、虚空蔵菩薩。十四日、普賢菩薩。十五日、阿弥陀仏。十六日、陀羅尼菩薩。十七日、竜樹菩薩。十八日、観世音菩薩。十九日、日光菩薩。二十日、月光菩薩。二十一日、無尽意菩薩。二十二日、施無畏菩薩。二十三日、大勢至菩薩。二十四日、地蔵菩薩。二十五日、文殊菩薩。二十六日、薬上菩薩。二十七日、盧遮那仏。二十八日、大日如来・不動菩薩)。二十九日、薬王菩薩。三十日、釈迦如来。

 地蔵菩薩は毎月24日が縁日。1月24日を「初地蔵」、7月24日を「地蔵大祭」として盛大にお祭りします。
 地蔵菩薩とは釈迦仏が入滅した後、弥勒菩薩が現れるまでの“無仏”の期間、釈迦に代わって六道の一切衆生の苦を除き、福徳を与える菩薩。地獄の衆生を救済し、子どもの成長を守り、その死後、賽の河原で苦難を救うと伝えられ、子どもの守護仏=子安地蔵として信仰されています。
 そもそも地蔵菩薩には「地蔵の十福」があり、女人泰産・身根具足・衆病疾除・寿命長遠・聡明知慧・財宝盈益・衆人愛敬・穀物成熟・神明加護・証大菩提の10の福徳が得られるといわれます。
 江戸幕府の庇護のもとにあった時代とは異なり、廃仏毀釈等の受難期にあったこの頃、作者・行基菩薩が込めた地蔵菩薩本来の「下化衆生」の霊力を開花されたのではないか、といえましょう。

縁日 授与品 地蔵堂
駿河一国百地蔵の御詠歌

 当山の本尊ならびに地蔵尊は、駿河の巡礼者が遺した御詠歌に謳われています。
 人々の地蔵尊信仰の篤さに鑑み、西国巡礼を参考に、静岡の由緒ある地蔵尊を自ら巡拝し、御詠歌をそえて編集されました。当山安置の千手千眼観世音菩薩は静岡新西国三十三番観音霊場の二十番に、地蔵菩薩は駿河一国百地蔵の五十四番札所に設定されています。

静岡新西国三十三番観音霊場 二十番
のをもすぎ やまぢにむかふ あめのそら よしみねよりも はるゝゆうだち
駿河一国百地蔵 五十四番
しろやすく おさまるみよの このてらの ぢぞうのそでに たよらぬはなし

 駿河一国百地蔵の歌は、駿府城二の丸の守護神として信仰されていた時代の地蔵尊を懐かしく思い起こしてくれるようです。