当山の境内にある「流井之碑」は、慶長5年(1600)に福田寺が創建された際、築かれた井戸を示すものです。碑には以下の文が刻されています。
慶長4年(1599)年のこと、鷹狩をしていた家康公が賎機山の麓で休憩した際、京都の円山に風景が似ていると、翌慶長5年(1600)、側近の後藤庄三郎に命じて京都円山の安養寺の僧・徳陽軒を招聘し、福田寺を創建しました。「流れ井」は本堂の前にあり、清冽にして味は萍(水草)の醴水(甘酒)のようで、旱しても(日照りのときも)、溢涸することあらず(枯れることはない)。「誠に霊泉なり」と称えられています。 家康公は慶長5年(1600)(別説慶長17年)9月13日に福田寺で次の歌を詠みました。
この歌から「流れ井」と命名され、一帯を「丸山」と称することになりました。家康公は名水の多い京都になぞらえ、この一帯を万事、京風のしつらえにし、駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地に、と考えたのではないか、と思われます。
江戸中期の当山住職・恵春和尚が、書家の源師道に依頼して由緒書を新たに作成し石碑を建立しました。
現在、流井之碑は地蔵堂と庫裏の間に整備され、霊泉と謳われた往年の情景を今に伝えています。