境内のご案内
三門。

三門。

皆様をお迎えする六地蔵。

皆様をお迎えする六地蔵。

賤機山を背に堂々と構える本堂。

賤機山を背に堂々と構える本堂。

本堂。

本堂。

本堂。

本堂。

本堂に祀られている弁財天。

本堂に祀られている弁財天。

平成27年(2015)5月建立の家康の歌碑。

平成27年(2015)5月建立の家康の歌碑。

本堂より庫裏・地蔵堂を臨む。

本堂より庫裏・地蔵堂を臨む。

日限地蔵尊菩薩を祀る地蔵堂。

日限地蔵尊菩薩を祀る地蔵堂。

縁日は毎月24日、大祭は7月24日。

縁日は毎月24日、大祭は7月24日。

後藤庄三郎光次供養塔。

後藤庄三郎光次供養塔。

本堂と地蔵堂の間にある「流井の碑」。

本堂と地蔵堂の間にある「流井の碑」。

本堂裏手の名泉。

本堂裏手の名泉。

本堂と庫裏の間にある名泉。

本堂と庫裏の間にある名泉。

墓地より本堂方面を臨む。

墓地より本堂方面を臨む。

 当山の境内にある「流井之碑」は、慶長5年(1600)に福田寺が創建された際、築かれた井戸を示すものです。碑には以下の文が刻されています。


駿河の州、安倍郡福田寺の後ろの山に泉有り。其の水清冽にして味は萍の醴水の如し。旱しても溢涸することあらず。誠に霊泉なり。往昔、神祖遊猟の日、山を西京の円山に擬して寺を建て、之の名泉に号して流井と曰ひ、和歌に題して寺に留む。茲より以て遊子風人の還りて興を寄せ、懐ひを吟詠に託すこと多し。竟に府中第一と名区と為る。然れども山阿幽隘なれば恐らくは久しきにして其の事跡を失はん。是れ憾みなりと。因りて謀るに現住の恵春、将に諸の不朽なるを垂へんとし、州人の履卿子、材、素々志の有るにより此の舉に與かり、倶に石を福田精舎の傍らに起つ。銘に曰く、維の流泉を比すれば、氷のごとく凝り、鏡のごとく徹す、之れを用ふるに日々を新たにして、之れを謖ケむに竭くること無し。宝暦三年(1753) 癸酉の秋八月 東都源師道識併書

 慶長4年(1599)年のこと、鷹狩をしていた家康公が賎機山の麓で休憩した際、京都の円山に風景が似ていると、翌慶長5年(1600)、側近の後藤庄三郎に命じて京都円山の安養寺の僧・徳陽軒を招聘し、福田寺を創建しました。「流れ井」は本堂の前にあり、清冽にして味は萍(水草)の醴水(甘酒)のようで、旱しても(日照りのときも)、溢涸することあらず(枯れることはない)。「誠に霊泉なり」と称えられています。 家康公は慶長5年(1600)(別説慶長17年)9月13日に福田寺で次の歌を詠みました。

松高き 丸山寺の流れの井 いくとせすめる 秋の夜の月

 この歌から「流れ井」と命名され、一帯を「丸山」と称することになりました。家康公は名水の多い京都になぞらえ、この一帯を万事、京風のしつらえにし、駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地に、と考えたのではないか、と思われます。
  江戸中期の当山住職・恵春和尚が、書家の源師道に依頼して由緒書を新たに作成し石碑を建立しました。 現在、流井之碑は地蔵堂と庫裏の間に整備され、霊泉と謳われた往年の情景を今に伝えています。