由来と歴史

 当山は正式名を【城久山永命院安西寺(じょうくざん ようめいいん あんざいじ)】と号します。創建は鎌倉末期の文保元年(1317)、開基は覚阿智達(かくあちたつ)和尚、時宗小本山格寺院にあたります。もともと現在の馬場町、中町交差点西に創建され、中世の時代、この一帯まで流れが及んでいた安倍川の西側に位置したことから、「安西寺」と名付けました。また、西からの守りを安んじるという意味もあります。  開基・覚阿智達和尚は、時宗の宗祖・一遍上人の孫弟子にあたる覚阿智得上人の遺弟で、智得上人の命によって当山を開きました。時宗は浄土系四宗のうち最後に興った宗派で、一遍上人は「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配りながら、全国を遊行し、布教活動に努められました。当山の創建もその意を汲むものです。


本尊は行基作・延命地蔵菩薩

 創建当時の本尊は、行基菩薩作の延命地蔵菩薩です。行基は奈良時代、聖武天皇の命を受けて東大寺の創建に尽力された方。病に臥された聖武天皇の平癒祈願のため、行基は駿河国足久保奥谷の楠で七観音を彫り、その後、天皇がお元気になられたことから、唐木の地蔵菩薩を一刀三礼で彫られたと言われております。

 室町~戦国時代、今川氏の支配下にあった駿府は「小京都」と称され、駿府今川館や浅間神社を中心にさまざまな宗派の寺院が商人町、職人町、宿場とともに共存していました。中でも時宗が伝える踊り念仏は多くの人々を魅了し、大いに賑わいをみせました。 駿府の支配者が徳川家康公に交替し、今川館址に駿府城が築かれると、東北、艮(丑寅)の鬼門に位置する当寺は鬼門除寺院として一層重んじられることになりました。本尊延命地蔵尊は駿府城二の丸に祀られた軍神・愛宕権現の本地仏(本来の姿)として扱われ、山号は「城久山」と命名され、徳川家の武運長久の祈願所として隆盛をきわめました。

 慶長4年(1599)年のこと、鷹狩をしていた家康公が賎機山の麓で休憩した際、京都の円山に景色が似ていると、翌慶長5年(1600)、京都円山の安養寺の僧・徳陽軒を招いて福田寺を創建しました。境内には「流れ井」と称して駿府城から湧水を引くなど、万事、京都風のしつらえに。家康公には駿府を京都に匹敵する政治文化の中心地にしようという思いがあったのです。福田寺は当寺の末寺となり、一帯は「丸山」という地名を授かりました。福田寺の創建には金座役人として「駿河小判」の鋳造を担った後藤庄三郎光次が尽力しました。

松高き 丸山寺の流の井 いくとせすめる 秋の夜の月

こちらは慶長5年(1600)9月13日に家康公が福田寺で詠んだもの。この歌にちなみ、この地を丸山と言い、山号は「秋月山」となりました。駿府の名水「流れ井」の傍らには、宝暦3年(1753)に建立された「流井の碑」が残っています。


時宗派の遊行を勧進した家康公

 徳川政権が樹立し、息子秀忠に2代将軍の座を譲った家康公が駿府城で大御所時代を築いた慶長12年(1607)、時宗本山32代普光上人が駿府を訪れ、家康公より遊行回国の許可を得ます。家康公は遊行中の時宗派の僧を大名並みに厚遇せよと徴発札を各藩に通達したということです。 当寺は今川家初代範国公が駿府を治めたときより徳川15代にいたるまで、御朱印(領知朱印状)にて八石八斗八升余を保障され、境内地領千九百十五坪を拝領し、念仏供養の布教に努めました。

 明治42年(1909)、福田寺を安西寺に合併し、丸山の福田寺跡に安西寺を再興しました。本尊は阿弥陀三尊とし、延命地蔵菩薩は境内の地蔵堂に祀ることとなりました。地蔵菩薩は火災で焼け焦げたため、布に巻かれ、厨子に納められており、弘法大師と観音像を安置しました。
  この地蔵菩薩は日限地蔵尊として多くの人々の信仰を集めました。縁日は毎月24日、大祭は7月24日に執り行います。

当時の駿府城下町の地図。馬場町に安西寺の文字。

当時の駿府城下町の地図。馬場町に安西寺の文字。


関ヶ原の合戦2日前に家康公が詠んだ歌。

関ヶ原の合戦2日前に家康公が詠んだ歌。


現在の流れ井。

現在の流れ井。


本堂と地蔵堂の間にある「流井の碑」。

本堂と地蔵堂の間にある「流井の碑」。


賜った御朱印(領知朱印状)。

賜った御朱印(領知朱印状)。


日限地蔵堂。毎月24日は縁日で賑わう。

日限地蔵堂。毎月24日は縁日で賑わう。

後藤庄三郎光次が鋳造を担った駿河小判(複製)。


後藤庄三郎光次供養塔

後藤庄三郎光次供養塔。

福田寺を建立した後藤庄三郎光次

 家康公に福田寺の建立を託された後藤庄三郎光次は、徳川幕府の鉱山(金山・銀山等)を支配した金銀改役。江戸本町一丁目(現在の日本橋・日本銀行本店所在地)を拝領して後藤屋敷を設け、幕府の財政・貿易顧問として腕力をふるった人物です。駿府城下では、現在の中町交差点あたりにあった当山の西隣、現在の日本銀行静岡支店所在地に駿府屋敷を設けました。今も残る「金座町」の町名にその威光を知ることが出来ます。
 大正2年に編纂された徳川時代商業叢書第一巻に残る『後藤庄三郎由緒書』によると、庄三郎光次は美濃国加納城下に生まれ、室町幕府の御用金匠を務めた京都後藤家の職人となり、その才覚を当主後藤徳乗に認められ、後藤の姓と五三桐紋の使用を許されました。
 庄三郎光次は文禄2年(1593)に家康公に接見し、文禄4年(1595)に後藤徳乗の名代として江戸に下向しました。徳乗は織田信長の大判金(天正大判)を作ったことで知られていますが、庄三郎光次は、より貨幣として流通しやすい家康公の一両小判構想を実現しました。今に伝わる「駿河京目壹荳、」「武蔵壹兩光次」等の花押極印と五三桐紋を打った小判が、その原型といわれ、江戸時代に流通された金貨(小判、一分判、二分判、二朱判、一朱判、五両判)にはすべて「光次」の極印が打たれています。
 『後藤庄三郎由緒書』には興味深い記述があります。庄三郎は家康公の縁組で青山善左衛門正長の娘を正妻に迎えましたが、その後、家康公の側室大橋局を下賜されました。当時、局は身ごもっており、後藤家で男子を出産し、二代目庄三郎廣世となりました。家康公存命のうちは“ご落胤”として篤い庇護を受けたようです。
 なお、金銀座の歴史や庄三郎が作った「慶長小判」「駿河小判」等の現物は、日本銀行金融研究所貨幣博物館(日本橋・日本銀行本店横)で紹介されています。詳しくはホームページを参照してください。
*日本銀行金融研究所貨幣博物館  http://www.imes.boj.or.jp/cm/